至って平凡な漢のありえない日常.第壱噺 妻と母と平凡過ぎる漢
濤弦梵璽郎《どうげんもんじゅろう》の隣の席に腰を下ろした女性には
違和感があった。何か言いたげな雰囲気で梵璽郎の顔を盗み視る。


旧帝都の街カフェで外回りの仕事を適当にさぼりながら
あまり好みでもない抹茶ラテをズルズルと啜る。
梵璽郎の趣味ではないがこのカフェの造りは今風だ。
要するに一人客に配慮してると言えば良いのだろう。
窓際に一枚板のカウンターが据え付けれていてそこに幾脚かの椅子が並ぶ。
特に連れもなく御一人様を望む輩は窓際の席に適当に座る。
通りすがりの人々の視線も気にならないようにと硝子は曇り細工がして有る。
梵璽郎が先にカウンターに陣取り、抹茶ラテを二口ほど啜ると
隣に女性が腰を下ろす。チラリと顔を盗み観ると
美人だな・・・と素直な感想が胸に浮かんだ。
梵璽郎の隣に女性が座ってすぐ、其の向こう隣に別の勤め人風の男が座り込む。
それから少しすると女性の様子が少し変だと気づいた。
大したことではないだろう。ちょっとした違和感であり
それは何か居心地が悪いとでも言うようなしいて言葉にするなら
ソワソワしていると言うかむずかゆいという感じで椅子の上で身を捩る。
向こうとなりの男と知り合いなんだろうかと朧気に思っても
所詮は他人事であり梵璽郎には関係ない事である。
もうちょっと砂糖を入れた方が好みの味になるかもだなと
カップの中に漂う抹茶ラテを意味も無く覗き込む。
「私の乳房を嬲って下さい・・・。」
梵璽郎の顔を見ようともせずに女性が言う。
真っ直ぐに目の前の硝子窓を見つめカウンターに両肘を付き
細い手で珈琲カップを包み込んだ仕草で言う。
小声では有るが確かに梵璽郎に向けてはっきりと言った言葉だ。
「正確に言えば、私の乳房を絞って下さい・・・です」
まっすぐとしかし淀みなく女性は言い放つ。
「えっ・・・?」さすがに驚いて女性の方へ顔を向ける。
なるほど。いつの間にか向こう隣の勤め人は居なく成っている。
それを確認してから女性は梵璽郎に声を掛けたのだろう。
「失礼・・・。」迷うことなく梵璽郎は御一人様の席を立った。
明らかに異常な言葉に梵璽郎は臆する。当たり前の事だろう。
昼下がりの午後。仕事をさぼり一人カフェ休息してるだけだった。
そこにいきなり女性に乳房を嬲ってくれと言われれば
誰だって身を引くだろう。
いくら治安の良いと言われるこの界隈と言えど犯罪はある。
恐らくは美人局のたぐいだろう。
綺麗な女性に言い寄られうかつにホテルでも張った途端。
強面の懶怠者《やくざ》が現れて金銭をたかる。
悪党共のお決まりの常套手段だ
梵璽郎は見の危険を感じたと言っても良いだろう。
関わりたくないと梵璽郎は思う。
紙製のカップに残る三分の一を煽るように喉に流し込むと
急ぎ足で女性を卓に残し目を出ていく。
過ぎゆく秋風と向い来る冬寒い空気漂う街中を
梵璽郎は逃げるように脚疾に歩き逃げる。
「待って下さい・・・。」店をでて三歩もしない内に
女性が追いかけてきて背中こしに声を上げる。
随分と焦ってるように思える声を梵璽郎は無視して歩く。
「お願いです。待って下さい。我慢できないんです」
すれ違う人々にも十分聞こえ届くような大きな声である。
しつこい人だなと心の中で思うが梵璽郎の脚は止まらない。
むしろ、なんとかならないと困り顔で脚を進める。
「ホテル代は私が払いますから・・・
それに・・・どんな事でもしますから」
強く決心した声に梵璽郎の肩がピクッと強張り歩みが緩む。
すぐに女性が梵璽郎の腕にしがみついて体を引っ張った。
向う先は昼茶屋と呼ばれる場所であり
今風に言えば逢びき茶屋・ラブホテルという所だろう。
