狗飼
【近代軍事国家倭之御國に於ける男尊女卑其の常識に抑圧される雌化に於ける日常意識と疾病例】
随分と大げさでちょっと大きな声で読み上げようなら周りのから指を刺されそうな文章で有る。
若気の至りでもあり大見えを切って蟹溝怒麟は大学の卒業論文の題名を決めた。
未だに戦争国家として東の海の島国でも有りながら大陸の覇者とを目指し日夜に戦争に明け暮れる
我が母国御国のへと辛辣な嫌味を大げさに掲げた論文のタイトルと成ったが
要はたかが壱大学生の遠吠えにしか過ぎない。
大体戦争批判の論文と言うよりもその後半の言葉の内容の方が本題で有であった。
尤も然り当然の如く多少のリサーチは行いはしたが大半は蟹溝の妄想とも言わない。
有りもしない事ではないが数名の人物の聞き取りや過去の文献資料からの引用の隙間を
自分の言葉でなるべく多く埋めて伸ばし何とか卒業論文の規定原稿枚数まで膨らませた物で有る。
倭之御國帝都文化教育大学・軍事教鞭学科に席を持つ蟹溝怒麟。
今でこそあの論文のお陰で少しばかり注目を浴び大学院生として勉学の枠を広げるに至るが
近々の将来には軍事教鞭の筆を取る教師を一応に人生の目標としている。
とは言え大学院生であればこそ欠かすべきも学ぶ事も数多と知れずでもある。
「蟹溝先生。例の御本ですが非常に好評で今回4回目の重版が決まりました」
「あっ。そうですか。それは何より嬉しい限りです」
例の御本とやらの重刷が決まったと声を上ずらせて告げてくる女性編集者の声と
その裏に有るであろう思惑も怒麟は短い事ばで濁すと携帯を切って鞄に詰め込む。
怒麟に取って例の御本と言われるのには少々羞恥と後悔の念が湧き上がるからだ。
編集者は手を叩いて喜び絶賛するが元を正せば大学の卒業論文だ。
提出したその論文を担当教授が気に入って編集社に持ち込んだだけである。
突然にある日寝耳に雨露とばかりに携帯の電話が鳴ったかと思うと
興奮気味の何処かの編集社の女性が連絡をよこす。
「直ぐに印刷に回したいと思いますので・・・。
お手数ですが弊社まで脚を運んで下さいませんでしょうか?」
「はぁ~~~?今直ぐですか?」
「こんな御本を眠らせて置くのは出版社の恥で御座います。直ぐにお願いします」
と半ば強引に押し切られそれまで脚も運んだことのない帝都の中心部のビルに言ってみれば
「御本の構成はこのままでお願いします。誤字の訂正と追加分などあれば・・・」
やたらと腰の低くも強引である担当者はそのまま弐日ほど怒麟を会議室に拉致監禁する。
怒麟が逃げ出すにしても先ず原稿を仕上げなければんらないと成れば仕方なくも
頭から読み返し当時では思いもつかなかった文章を加筆し何とか本の体裁を整えた。
問題はそれですまなかった事である。
一度。本という体裁を持った文章が世に出るとそこには読み手の評判がついて回る。
図らずも本のタイトルは長くも堂々と母国御国の戦争批判にも読める物で有ればこそ
評論家彼奴らは中身を読みもせずに作者を陥れるんと悪評で机を叩くも・・・。
興味本位で読んでみた者もその内容は理解し難くもあり捨て置かれる。
否然し。最初こそ受け入れられぬ駄本とラベルを貼られたそれでさえも
有る一定や極々稀に特殊な趣向を持つ者にはこれぞ教典であると言わせるに至る。
それ言えに蟹溝怒麟の其の名こそに特定の世界では著名と名を轟かせ今に至る。
怒麟が学園内でも其の名字を語られる事もすくない教授と言う漢が気になったのは
卒業論文を書き上げる一年前で有る。大学の廊下で何度かすれ違った位のはずであるが
来春には院生としての生活も終わるだろうという間際に突然に声がかかる。
「君はあの著名な蟹溝怒麟君であろう?
あの本は中々に面白かった。君は資格があるようだな。
突然で申し訳ないのだが3日ほど儂の狗を預かってくれぬかね?」
思いも知れぬ言葉であったが教授の言葉には重みがあった。
「犬ですか?あまり動物はすきではないのですが・・・。3日ほどでしたら」
親しくもなくむしろそれまで接触のなかった教授が声を掛けてきたかと思えば
飼い犬を預かってくれと頼み込む。二つ返事とは行かずとも承諾をすると握手を求められ
「云々。後で連絡するから」とバンバンと肩を叩いて教授は去っていった。
それから数日後に狗を預かった怒麟の生活は急転直下に人生が真逆に変わる。
ある種。動物に愛情を注ぐと言うのは人とに至福の時間を与えると同時に
その損失は心に十分すぎる傷を残すとも言える。
例えそれが三日間と言う短い時間であっても
其の時間を味わってしまった怒麟には大きな後悔が残る。
約束で有るからと預かった狗を手放したのはその後怒麟の心に大きな傷跡を残した。
そこまで強く想ったのかと言えばそうであるとも言い切るし
たかが狗一匹と言うのは語弊が有る。
同時になぜあの教授と言う男が自分に声を掛けてきた方も重々と理解出来た。
教授から預かった狗は古助と名付けられていた。
正確な表現では当然ないのであろうがしきたりに照らし合われば小型犬に類するのだろう。
人目見て雌と解るが古助と言う名には少々違和感もあった。
初めて古助を自宅に招き入れた時に怒麟は勿論驚愕し言葉を失ったが
対する古助の方は全く持って警戒心もなく直ぐに怒麟に懐く。
度を越した愛情と忠誠心に根負けすると後は怒麟自身もベッタリと惚れ込んでしまう。
コスケは良く懐き四六時中怒麟にまとわりつく。
躊躇する怒麟のその手から直接に餌を食べ頭を撫でるとお返しにとばかりに
怒麟の指を舐め回す。犬が好まずとする温かい風呂も一緒に入ればはしゃぎ回る。
古助の相手に疲れてソファでうたた寝でもしようものならこれはチャンスと
怒麟の体だの上に覆いかぶさり自分の添い寝と決めこむ。
怒麟が瞼をあければ遊んでくれとばかりに玩具を咥えて強請りもする。
飼い主として怒麟は古助にこの上なくとも愛情を注ぎ
古助も怒麟を主人と受け入れ其の愛情にこの上ない忠誠心を尽くして答える。
怒麟は溺れた。
古助と言う狗を飼うという事に溺れたと言って良いだろう。
否然し刻に参日と言う時間は短すぎる。
所詮に預かり物であると言う事を怒麟は身を引き裂かれる思いを強いられた。
良くも悪くもペットと言う物の別れは傷心する人の想いは独特であると聞くが
過ごした時間の長さに関わらず一度結んだ絆の深さは真実であろう。
追い打ちを掛ける出来事もその後に続いてしまう。
教授に古助を引き渡してから半月の後。
偶然にも夕飯の買い出しに出た商店街で古助を三歩させる教授にであう。
「やぁ~~~。蟹溝君。その節は世話になったね。
古助も随分と君を慕っていたようだ。云々。やはり君は才能があると視える」
暫しの間教授と談笑にするに至るがあれほど怒麟に懐いていた古助の態度は意外だった。
赤子も参日世話すればとも言うが教授と古助の絆はそれとも違うらしい。
旧知の仲の友ととは言えずとも談笑する主人と其の相手。
確かに一度はちらりと怒麟の顔を盗み見た癖にも。
その後はつまらなそうに視線をずらし散歩帰りには必ず寄り買ってもらえるだろう
肉屋のクリームコロッケの匂いを嗅ぎつけたのかずっとそっちばかりに視線を送っている。
怒麟にとっては絆むずまじく少しは情が残っているのかと思えば
それはどうやら古助に溺れた怒麟の方だけであったらしい。
僅か参日の絆であっても強烈な記憶と思いが湧き上がりいつの間にか怒麟は
指を握り拳を作っもいた。
その拳を古助はちらりと盗み観る。
まるで自分の首輪から伸びる鎖の先が其の拳の中へと繋がってるかのように。
「元気でやれよ。古助・・・」
最後に軽く小さく怒麟は声を掛け教授に対し深々と会釈をすると
彼等とは反対側の方向へと態々に家路へと遠く回って有るき出す。
怒麟は荒れる。
その後数日の間に豹変したと言っても良いだろう。
暴力とは無縁の大学院生であったにも欠かわわずにアパートの中で暴れまわり
身につく家具に八つ当たりをすれば壊し飲みもしない酒を買いこんだと思えば
店から出る前に封を切って飲み出し喉を焚く。
酩酊しすも家に帰れば又暴れ家財道具を壊して回る。
若さ故の暴虐は数日間の間も続く。
古助の名前を呼んで叫んでは隣の部屋の壁を叩かれ挙げ句の果には
警察まで呼ばれる始末でもあった。
いっそ冬氷固まり蓋と成る帝都清水の川に飛び込んてやろうかと呆けた頭で願えば
一冊の本の表紙が目に留まる。
【近代軍事国家倭之御國に於ける男尊女卑其の常識に抑圧される雌化に於ける日常意識と疾病例】
言うまでもなく蟹溝怒麟自身が執筆した大学の卒業論文を草案とし
修正加筆し製本出版されたものである。
よろよろと畳の上を犬の如く這いずり歩みより自分の書いた本の前に胡座を書く。
二度の執筆以降に自分では読み返した事のない文章を改めて読み返すのは新鮮でもあった。
思いつきや空想と妄想に捕らわれて適当に書き上げた物ではなくも。
確かにそれはあるやもしれんと成る着想から出発し自分でも驚くくらいのリサーチを十分に
行い精査し。実際にその傾向とその世界は有ると証明して魅せた論文である。
刻に長く続く戦さ事の個の御国の歴史然り・・・。
人の営みは衣食住に始まるが其の裏に人として人類としての子孫繁栄の為の本能も有る。
動物で言えば交尾とも言えれば人の言葉で性交とも言うだろう。
もっと淫猥に言えば隠語に限らず多種に多様に表現されるだろう。
動物の交尾は己の子孫を残す極めて純粋な行為で荒ればこそ。
対する人種人類は極めて大きく高度な脳を持つために其の行為さえ楽しみと捉える事も
可能であり。時にそれは度を越した特殊独特の世界を生む。
突き詰めて行けば最終的に至る行為は同じであってもたどり着くまでの過程はそれぞれで有る。
それは環境や土地柄・歴史的な仕来りも大きく影響すれば傍の者から見れば
常軌を逸する形態であろうともそうであるべきと言う信念は揺るぐものではない。
世界的に見ればその風習も多種有るべきと言うように尊重されるべきものでもあるが
個人個人が作り上げる其の世界は多類の種を極める。
比較的大人しい物であろうから並べれば・・・。
自慰行為・自縛り・露出症・自虐行為・同性愛・多人数による乱交等は未だ可愛い方である。
其の中で怒麟自身が興味を持ち態々その性癖を持つ人々を訪ねた症例の一つが家具扱いである。
色々と定義が難しくも曖昧な世界で有るからこそに特に家具扱いは特殊だろう。
有名なのは戦前に執筆された家具椅子の女という本でありそれは文字通り特別に誂えた
椅子中に潜り込み想い人が座ってくれるのをじっと待つと言う一種独特の世界を描いた物である。
尤もこれは秘める想いを表に出さないだけ未だましでもあり。
昨今ではもっと直接的な行為を楽しむ者も多々にある。
簡単に言えば簡素は木枠のみの椅子の枠に自分の手足を縛り其の上に人を座らせる。
床に四つん這いに成って大きな硝子板を背中に乗せ支え飲み物を提供する行為も有る。
勿論。自身の背中に直接誰かの尻を乗せて有るき回るのに悦楽を感じる者もいる。
これらを広義すればBondage・Discipline・Sadism & Masochismの一貫とも言えるのだろう。
怒麟が論文の主題として描いた家具扱いと言う性癖の一種もこれに属し類するものであるが
時に男尊女卑の極みともその傾向が強い倭之御國では多く見られるやもしれない。
実際に脚をつかって調べて観るとその趣向を持つ者は男性女性か変わらずに多く。
大都市の片隅をそれなりに集中して探せば専門の家具や職人を見つける事も出来るだろう。
尤も当然の如くにそれは自分がその趣向を胸の内に抱え込んでいるのが前提で有る。
否然しだから取って直ぐその世界に脚を踏み入れるのも又難しい。
敷居が高い世界であり。例えば椅子と一つにしても座る相手が居なければ
只の椅子でしかないから自分の欲求を満たす事など出来やしない。
つまりは座ってくれる人が身近に居ないと成立しない行為であり
結局は誰かを求めそれが自分の主人と称し従属する事に成る。
怒麟が書いた論文は本となりそれなりに売上が上がる。
売上が上がると言うことは一定数にその趣向を持つ人間がいると言うことに繋がる。
その本は今まで個の國で黙して秘める事柄で有った趣向を公然と認め描き
世間に告知した本であると言えるのだろう。
但しあまりに奥深いその世界の飽く迄言ったんで有り扱った家具扱い趣向の他にも
多様な趣向の世界が有ると言う事を怒麟は見逃していた。
それこそが怒麟と古助の関係でありそれを表するなら犬扱いと言うのだろう。
だからこそ初めて古助と会った時に怒麟が驚愕し言葉を失った。
あの教授が狗と呼んだのは紛れもなく犬ではなく人であった。女性である。
人前と世間の体裁を気にしてなのだろうか小柄な女性はアパートの外では衣服を着ていたが
玄関の扉が後手にしまると当然にもどかしくも邪魔だとばかりに衣服をはぎ捨てる。
冷たいであろう廊下の床にぺたんを尻をつけるとくりくりと可愛らしい瞳で怒麟を見つめて来る。
当惑する怒麟が古助を受け入れるまで少々時間がかかる。
何せ狗である。人の言葉は理解するが返す言葉はわんわんとくぅ~~んだけである。
打ち解けるまでにさほど時間がかからなかったのは怒麟の漢としての性であろう。
眼の前に狗のように四つん這いで過ごす古助は裸である。
屈託もなく甘えてくればなおさらにやめさせようとすれば乳房に手が触れる。
敏感な体質なのかそれともそう躾られたのか古助は直ぐに可愛らしくも喘ぐ。
耳元で女性が喘げば理性も跳んで跳ねてしまう。
急激に火照り熱を持つ肌の色気に互いに欲情を覚えれば後は止まらない。
理性をうしなった怒麟が古助を求めれば脚を開いて迎え入れ
閉じて抱え向きを変えれば尻を突き出してくわえ込む。
何処までも従順な古助は求めらえるままに怒麟を受け入れた。
事実。参日という時間の其のほとんどを二人は寝室で過ごし互いに深く絆を結ぶ。
愛欲と欲情に溺れただけだと言えば確かにそうだ。
確かに古助は教授の狗であり数日と預かっただけである。
古助にしてみれば良く遊んでくれる人と数日過ごしたと言う認識なのだろう。
だからこそ本来の主人の元に戻れば再び忠義を尽くすだけなのであろう。
それだけの噺である。
人は一度食べた旨い物の味を忘れない。どんなに時間が経ってでもで有る。
嗜好品や麻薬と同じように一度脳に刻んだ快楽をなかった事にするには難しい。
古助との情事と生活をどうしても忘れられず怒麟は自分でもと強く思う。
狗飼い・・・。
自分が本に書いた家具扱いと同種の言葉と成るのだろうが
その世界は奥が深く幅が広い趣向であると手間を掛けて調べてみると知れてくる。
つまりは家具扱いの趣向を持つよりも犬飼いのそれのほうが求める輩が多いとも言えた。
だがそれは簡単な事ではないとも知れる。何せ人を犬と同等に扱い躾けるのだ。
それを狗と呼びつけるのは簡単であるがそう上手く行くはずもない。
幾らその趣向を持つと言っても人である。ましてや相性も有るはずだ。
大体にして先じて犬を買うと想定しても結構手間のかかる行為である。
住まわせる為の家がいると成れば犬小屋と成る。
犬一匹であるといっても食と住は必須であればそれが人となれば結構大事である。
準備だけでも大変であるが今度は実際に其の狗を探すのも大変であろう。
その辺の街のペット屋の硝子向こうで待ってる訳など絶対にない。
ある意味特殊な趣味趣向を持っている女性であればこそ黙して秘めているに違いない。
壁に当たれば何処から噂を聞きつけるのか助け舟は必ずと有るものだ。
あの教授の根回しと言う事であろうが一通の封筒が怒麟の郵便受けに届く。
十分すぎるほどに硬い紙で包まれた書簡を開けるのには苦労もする。
誰からかと訝しげに裏を返せば【狗飼商会】と達筆な筆字で綴られている。
疑い余地もないが怪しい雰囲気が漂う書簡は随分とその枚数が多かった。
その一枚は確かに招待状であるが残りの書簡は随分と真面目で厳しくもある。
一種の契約書じみたものでありきちんと精査熟読し署名を求め返信せよと命じてもいる。
狗飼と言う言葉とその情報に飢える怒麟は先ず最初に内容を確認も禄にせずに署名する。
それから部屋のソファへと有るき出し眼鏡を掛け直し書簡をじっくりと読み込んでいく。
狗飼いと言う言葉とそれに関わる事柄は極めて厳しく管理されていた。
少々の興味や自分がその指向性趣向を持っているかもやと自覚した所で
正式な狗飼いとは認められない。其の程度であれば個人で妄想に浸り茶を濁して
楽しめば良いと言うことらしい。
噛み砕いて考えれば趣味程度であれば適当な相手を適当に見つけ其の範疇で適当にやれ。
そう言ってる。逆に本当に狗飼いを名乗りその道を進むのなら先ず才能を示さねばならない。
理にも叶っているだろう。狗と言っても相手は人である。
犬と言う動物を飼うのも覚悟がいる物であれば人となれば其の重責は尚に思い。
要は狗飼いとしての覚悟がないのなら黙って引き下がれと宣告を突きつける書面で有る。
一時の快楽に溺れ其の次を期待するな。黙って立ち去れと言う事でもある。
なるほど。それは確かにそうであると怒麟は苦く自分を嘲笑い
先程署名した部分に二重の線を引き態々と訂正の印として判子を押す。
自分には狗飼いとしての才能はないと自覚したしそれと確かに認めもする。
面倒だったのは其の書簡の返信についてである。
普通に返信用の封筒も付録とされていたが怒麟は懸念を覚える。
少なくても一度は署名したのだ。それを訂正したという旨を伝えるべきではないかと
考えてしまったのだ。このままでは余計な事に巻き込まれないとも限らない。
大学生活も終盤に掛かり忙しく成りつつもあるのだ。
少々の手間を掛けてもきちんと正すべきだとも考え態々脚を運ぶ事にする。
「これはこれは。蟹溝先生で御座いますな。御噂は兼ね兼ね。
本日は例の件で御座いますな。まずは書類の確認から・・・」
季節が移り変わりもうすぐ冬雪の到来も有るだろうと予測も容易い日の午後。
大学の用事を適当に片付け怒麟は狗飼商会とやらに態々脚を運ぶ。
質素で有りながらも重厚で気品の有る扉を腕に力をぐいと込め開けたその先。
これも又ある意味に古風な燕尾服姿の主人がにこやかに迎え出る。
歳の割に随分と薄くなった髪頭をポマードでベッタリとなでつけ抑えるのは
当人も気にしている証拠でもあろう。
にこやかに胸前で揉み手を温める主人の言葉を失礼ながらと遮り
怒麟は事の顛末を細かく説明する。
「然様で御座いますか・・・。
蟹溝先生ほどの御方であれば立派な狗飼いに成られること間違いないと存じますし
件の教授も太鼓判をばんばん叩いて押すくらいでありましたから至極残念で御座います」
脂ぎったポマードの割にその香りは仄かな鈴蘭の匂いと言うのも不思議ではある。
もっとも向こうも商売であろうから大げさに風呂敷を広げているのだろう。
怒麟としてはあまり好感を持たない教授と単語を出され自然と眉が寄り皺と成る。
「まぁ~とりあえずどうやらに僕は覚悟も才能もないらしい。
勇み足で書類に名を記してしまったけれど。これを持って訂正として頂きたい」
一応の詫びと言ってはなんではあるが路面電車の駅を降りたついでに買い求めた
黒蜜庵子の鯛焼きの包を無理に押し付けきすびを返し足早に店を出ようとする。
一瞬の風が疾走った気がした。素早く何かが動いたとでも言うのだろうか。
「こら。又、御前か。お客様から頂いた物だぞ。御前のおやつじゃないんだぞ。
あっ。失礼しました。蟹溝先生。うちの商品が勝手に粗相をしてしまい
申し訳ありません。あの少し御時間を頂けないでしょうか?」
先生と呼ばれるのは妙にくすぐったいのだがいつも編集者がそういうと大抵碌な事に成らないとも
よくと知っている。それでもそう呼ばれてしまうと断りにくいのも確かである。
仕方なく重い扉取手を離し振り返ると奇妙な風景が目に映る。
怒麟は確かに店のカウンターの上に買い求めた黒蜜庵子の鯛焼きの包を置いた。
それは今も其処にありぽかぽかと湯気を立てている。
否然しその数が足りない。五匹と言うか五個入りのはずであったがすでに一個は包の中になく。
次の弐個目はすらりと細くも綺麗な指先が握り締める。
其の反対の手はポマード頭の店主の顔を押しやり退けようと力が篭もる。
「だから御前のじゃないっていってるのだぞ。蟹溝先生が態々買って来てくださった。
あっ。こら。参個目をつまむな。儂にも寄越せ。食辛房な雌狗の癖にぃ~~~」
要は狗飼いには向いてないと伝えに来たついでに手間を掛けたと詫びのつもりで届けた
鯛焼きを一人の淑女が麗しくも口の周りに庵子をべったりと付けたままに
髪の薄い店の主人と奪い合っているのだ。
先程舞った疾風の如く風の正体こそは食辛房の雌狗と呼ばれた女性であろう。
怒麟が店に来る前まではきっと主人と遊んで居たのだろうか。それとも躾の最中だったのか。
客が来たとばかりに奥へと引っ込んだのは良いが美味しそうな黒蜜鯛焼きに我慢出来ずに
飛び出して来たのだろう。何ともいやはや意地の汚いのかそれでこそ狗と呼べるのか。
「こらこら。待て。待てだ。
慌てて食べなくでも鯛焼きは逃げんぞ。もしそれで足りないなら又買ってやるから」
風格慄然とする店の中で黒蜜の鯛焼きの取り合いとは何とも笑いが抑えられず怒麟が声に出す。
「本当ですか?あと八個は食べたいです。それと門向の焼き鳥も買ってくれますか?
そっちは五本。後は駅向こうの惣菜コロッケも。
散歩の次はお昼寝で頭と喉をナデナデしてくれますか?」
背もスラリと高く端正な顔つきで有るのだが口の周りにべったりと黒蜜庵子がついている。
「まぁ~~~。しょうがない。買ってやるから大人しくしたまえ。
散歩なのか?え?その後昼寝で腹を撫でろと?」
当惑する怒麟にポマード頭の店主が頭を云々と激しく立てに降り言う通りにしてくれと愛玩する。
なるほど其の訳は庵子を口の周りに付けたままに伸ばした細い指が
店主の頭の毛を毟ろうとしているからだろう。
「まぁそれくらいならしてやろう・・・」
仕方なくも怒麟が頷くと背の高い雌狗は満足げに顔を輝かせカウンターのこちら側に来るついでに
残った鯛焼きをつまみ上げ結局自分の腹の中に全部収めてしまう。
流石に口の周りに庵子を付けたままで店の外に出る事はないだろうと怒麟は思ったが
おやつ目当ての女性。基に背の高い雌狗は全くもって気にしない様子で出かけようとする。
さすがにそれは世間の目が有るかとも思いハンカチを取り出して渡そうとするが
彼女は受け取とろうともせずに顔をくぃっと突き出しただけである。
「もしかして拭けと言うのか?僕が拭くのか?それくらい自分で・・・」
人であり淑女であれば当然に出来ることであろうが雌狗の女は首を横にふるふるとふると
又にくぃっと顎を突き出す。少しきつめの顔立ちであるにも色ぽさがにじみ出る。
「飼い犬の世話は主人の義務で御座います。それくらいして頂かないと噛みつきますわよ」
至極それが当然とばかりに雌狗の女は言い放つ。
「そういう物なのか・・・。納得が行かないけども」
言葉を話すだけでも有り難い気持ちが湧き上がるが何か誤魔化された気分が拭えない。
それでも目の前に突き出された顔にハンカチを当てて余計な庵子を拭き取ってやると
ぷるるとした可愛い唇が嬉しそうに震えたようにも見て取れた。
「蟹溝先生は狗の扱いにもまだ疎いでしょうから重々お気をつけになってくださいよ」
多少なりとも不機嫌であったが美人を連れての散歩となれば少しは憂さも晴れるだろう。
それでもで出かけ様に必死に成って乱れた髪の毛を整える主人の警告を怒麟は守る。
(これは仕来りで御座いますので必ず守って下さいよ。蟹溝先生。
慣れない狗を散歩に連れ出す時は特に気をつけないと行けません。
要するに首輪を嵌めて鎖に繋ぎその先をしっかり握ってなければ成らないのです。
特に其奴はじゃじゃ馬と言うか中々我儘なやつですので)
そう言われると余計に緊張するが言われてみれば実際に犬の散歩となれば確かにそうだ。
どの犬も首輪を嵌めて鎖やリードを伸ばしその先を主人がきっちりと握っている。
犬の散歩と狗のそれが違う所はあれども繋ぐべきである事は同じである。
つまりはこの時主人となる怒麟は弐歩と遅れてついてくる雌狗の首輪から伸びる鎖。
例えそれが見えない物であっても拳を固めて握る必要がある。
多少気恥ずかしさや気まずさが有るうちはジャケットやズボンの中に
拳を入れても構わないらしい。とにかく鎖の先の取手を握って貰うと言う事が
後ろを付いて歩く雌狗には安心感を齎すものであるらしのだ。
「はぁはぁ・・・硬くて元気なの・・・素敵・・・ああ・・・」
「どっ・・・どうしてこうなった・・・ああ・・良い・・・」
散歩の後のお昼であったはずだ。最初こそ約束した通り雌狗の頭を撫でて居たはずであるが
気持ち良さげに鼻を鳴らすと其の雌狗はムクリと起き上がり怒麟の顔を真っ直ぐと見つめると
無造作に衣服を剥ぎ取り其の股座の一物を扱きだし頃合いとなると自らその上に跨る。
「お散歩とおやつのお礼です。
私奴の御主人様は狗よりも奥様の方が怖いと言うので余りかまって貰えないのです」
「なっ。なるほど。おやつの礼なら受け取っても構わないかも。・・・それしても激しいぞ」
アパートの一室にパンパンと怒麟の腰上に跨がりばんばんと尻を打ち受ける雌狗。
よほどに色々と溜まっていたに見えるがおやつを欲しがるのは良いが
結局其の雌は駅前の商店街の旨いと言う評判ばかりの店前で必ず脚を止め
細い指で商品を示して強請る。其の数が八件を超えると今度は〆とばかりに
商店街で壱番旨いと皆が列を造るラーメン屋に入ったかと思うと
大盛りラーメンとチャーハンと餃子をぺろりと食べ腹をポンポンと叩く始末だった。
ちょうど其の頃狗飼商会の店主から電話が入りついでだから
明日まで其の狗を預かってくれと無理に頼まれる。
行きがけの駄賃とでも言うわけでもになかったがその日の予定も後はなかったので
まぁそれも何かの縁と思うことにしてアパートで昼寝をさせたは良いのだが
強欲なのは食事だけではなく情欲もそれを遥かにうわまるのだろう。
結局夜遅くまで互いに腰を振り息も絶え絶えに眠りに堕ちた夜と成った。
暫くの間・・・。
怒麟は帝都住まいの暮らしから離れる事にする。
言ってしまえば懲りたのである。
確かに自分は世情にも疎い学生のままで少々調子に乗ってそれなりに売れる本を書いたとしても
所詮は人生をそれに没頭し後で若気の居たりであったと悔いるのを嫌ったと言えば
少しは格好が着くだろう。尤も正直に言えば狗と言っても人肌の女性で有る。
狗として扱うと言うのに成れず結果的に振り回されてしまう自分が情けないと感じのだ。
結果的に帝都のアパートを引き払い遠い土地に引き篭もる事にする。
暫しの安息を見知らぬ土地に求めたのだ。
大学のその院を暫し休学してまでも怒麟がやろうとした事は自分のを戒める事と
やはり狗飼いの趣向の世界を肌で感じ改めて人の業と其の欲の深さを知ったからである。
以前自分が書いた本の其の浅さはかさに恥を感じたのが原因だった。
そのままに流しても良いと言うのだろうがやはすでに世に印刷として出回っている以上
読み手の中には稚拙な本であると読み投げる者も多いだろうと感じた。
置字
